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07.聖書講話
「三位一体の神を霊と真理をもって礼拝する」 直木 葉造
讃美歌 511・521
聖 書 ヨハネによる福音書4章21~24節、6章28~29節 経 歴 今年度の全国集会のテーマは『「無教会」とは』ですが、無教会の礼拝の大切な一面は聖書の御言葉を介して神様と向き合うことにあります。神の御前に私たち一人ひとりが低められ静まり御言葉を聴き、御言葉を通して霊的な導きを頂く中で、神を拝し賛美することにあります。私たち人は、実は「神の霊の宿って下さる生ける宮」であり、人の霊魂・心が神の御前に素直になると聖霊なる方(助け主)が臨んで下さるのです。「風は思いのままに吹」いて来て、導いて下さるからです。今日の礼拝の講話の題に入れさせて頂いた言葉「霊と真理をもって」とは、聖霊なる方の助けにより神様の御言葉の光に照らされ、御前に罪人であることを知らされ、悔い改め、砕かれ、罪の赦しの福音を受け留める人の内的姿勢のことです。昨日発題して下さった方々のお話の中でも語られていましたが、ルターの残した負の遺産に、形式・制度を残したことがあります。人は目に見える形、形式により人間的な安心感を得ようとしてしまいます。しかし、そのことを利用して信仰の真の命を失わせることは悪魔の策略の一つなのです。そのためにルターの宗教改革後も信仰に生ける力が無くなった歴史があります。それ故にドイツではフィリップ・シュペーナーらによる敬虔主義が真の信仰を守る上で重要な使命を負うものとして登場してきたのです。内村鑑三の信仰の恩師であるアメリカアマスト大学の前総長のシーリー先生も若き日にドイツのハレ大学留学中に敬虔主義の深い影響を受けたと言われています。私たちの信仰的戦いの重要な一面は、形式化・制度化、派閥・分派との戦いだと考えます。福音書に記されているイエス様の戦いも、まさにその様な面があったと思います。 < Ⅰ > さて、21世紀に入り人間社会は、グローバル化が進みインターネットに代表される情報の時代となりました。私たちの周りでは日々、世界中の情報が飛び交っております。私たちのもとへ届く情報の多くは喜ばしいことより悲しく辛い、知るに忍びない内容が多くあります。この地球上に人が増え生きていることにより、他の生き物たちが苦しみ滅んでいること、また、ほぼ毎日のように人も互いに痛めつけ合い、殺し合っている様子が伝えられています。私はその様な時代に生かされる者として、ロマ書8章19節以下のパウロの言葉について改めて深く考えさせられています。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。・・・虚無に服していますが、それは、・・・服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。・・・いつか滅びへの隷属から開放されて、・・・自由にあずかれるからです。被造物が・・・共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。・・・わたしたちも神の子とされる・・・体の贖われることを・・・うめきながら待ち望んでいます。」この地球上に人が増え生きていることにより、実に他の生き物たち、地球上では私たちよりも長く生きてきた生き物たちが苦しみ、そして、次々と滅んでいっています。新約聖書の最後に記されているヨハネ黙示録22章20節「 然り、わたしはすぐに来る。アーメン、主イエスよ、来てください。」の言葉、実はこの言葉は人の叫びというよりも全ての被造物の神様への叫びなのです。 マルコによる福音書13章7~9節前半には、イエス様の語られた次の言葉が記されています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。・・・」現在、私が勤めさせて頂いている、三重県にある私立のキリスト教主義、全寮制の農業高校、愛農学園農業高等学校の創立者の小谷純一先生は、最晩年(先生は2004年10月1日に94歳で天に召されましたが)を過ごされている中で2001年9月11日、先生が91歳の時ですが、あのニューヨーク連続爆破テロ事件を経験されました。先生はそのことを機に、「人は何故殺し合うのか?」という古くて新しい問いに苦しみ、神様に真剣に祈り、そのことへの神様からの聖霊の助けによる啓示を求めました(小谷先生は自らの敗戦前までの歩みを悔い、戦後「平和」を最も大事に生き直され、1945年12月から愛農農民塾を開催し(今日も続けられている全国愛農会の前身)、1950年2月1日に『愛農救国の書』、1957年8月20日には『愛農救人類の書』を世に出された方です)。その問いかけに対し、神様から示された答えが、ヨハネによる福音書8章44節の御言葉「 悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。・・・」でした。創世記の3章の記事が語っているように、人が悪魔にだまされ罪を犯し、その奴隷となり、その後、悪魔に加担させられるようになってしまったため、悲しいかな、人は殺し合うようになってしまったのです。創世記4章の兄カインが弟アベルを殺すという記事が物語っている通りです。今日、世界中で毎日のように 人間どうしも互いに痛めつけ合い、殺し合っています。 最も賢いとされる人を頂点とするこの地球上の生き物の世界は、今日、何と悲惨な状況にあることでしょう !! < Ⅱ > 人類の歩みの影 約40億年の地球生命史の中で生かされてきた生き物の中で、創世記1・2章の記事が語るように、人は神にかたどられている特別な存在なのです。人の生命は肉体と霊魂で構成されており、全て人の内に在る霊には、肉体の感性を越えて見えざる神様の世界を認識しえる霊性があり、自由意志、創造性等、尊い大切な能力が与えられています。 今日までの人類史の研究の有力な仮説としては、現在のわたしたちはホモ属に分類され、その祖先としてはホモ・ハビリス、ハイデルベルゲンシス、エレクトス、ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)らが出現し、それらの先輩との関係の中でわたしたちは、ホモ・サピエンス(クロマニヨン人)として生存するようになったと考えられています。人は約30万年位の時間、この地球上に生き続けています。ネアンデルタール人は遺伝子レベルで極めてわたしたちに近い存在(ゲノム解析の結果、99.95%位は同じDNA塩基配列を持つことが明らかになっている)でしたが、今から約20万年位前には絶滅して姿を消してしまいました。そのネアンデルタール人の暮らしぶりは、人、即ち、クロマニヨン人と比べずっと単純であったようです(専門的には、ほぼ同じゲノム(遺伝子組成)を持つ生き物でも、遺伝子の発現の仕方に時間差やその他の変化が生じそのグループの生き物の普通の成長過程の初期の幼さが大人になっても残り続けるよう変異した固体は、他のそのグループの生き物にはなかった優れた傾向を持ち得ることが分かってきています。この進化仮説をネオテニー進化仮説と言いますが、幼さが大人になっても残り続ける例として、ロシアのシベリアのギンギツネの研究があります。成獣になっても赤ちゃん鳴きするキツネの中に、人を全く恐れず好奇心を持ちなついて、イヌ以上に人の求めることを出来るようになる固体が沢山既に遺伝的掛け合わせの結果いるそうです。そのことも同じ遺伝子を持っていても発現の仕方の変異による個体差ではないかと研究が進められております。人でも晩年まで「好奇心」を生き生きと持ち続けられる人は、生涯精神的にも進歩し続けるわけです。ネアンデルタール人とホモ・サピエンス(クロマニヨン人)の違いもそのあたりで少し説明できるのではないかと現在私は考えています)。 わたしは創世記のアダムとエバは、初期のクロマニヨン人であったと考えます。繰り返しになりますが、そのアダムとエバ、即ち、人が創世記3章に記されている様に、蛇であるサタンにかどわかされ、神様からしてはならないと言われていたことをしてしまったのです。罪を犯してしまい神様の御前に立ち得ない存在になってしまったのです。その結果、地は創世記3章17節に記されているごとく「お前のゆえに、土は呪われたものとな」り、人は神様と共に生きることの許されていたエデンの園、永遠の命の世界から追放され、先のロマ書に記されていたように、被造物のうめき、苦しみが始まりました。そして、人にはさらなる悲劇が起こります。先に触れましたが、アダムとエバの息子たち、兄弟間の殺人事件(創世記4章)です。一度、サタンの誘惑に陥った人は、引き続きサタンの配下に引きずりこまれ、主人であるサタンと同じように殺人を犯してしまうようになったのです。悪魔は最初から人殺しなのです。地球上に存在することを許された生き物、それも神に似せられた存在として生きることを許されている人のその後の歩みには、今日まで悲惨さがつきまといます。Ⅰコリントの信徒への手紙3章19節に「知者は悪知恵によって捕まる」とあるとおり、人は自由意志により神の御心に適う善と共に、反する悪を為す存在となってしまいました。 パウロは「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らか・・・。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性とは被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。・・・神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。・・・」(ロマ書1章18~25(~32節)、(さらには2章1~10節・11~16節、3章前半))で、私ども人の状況を詳しく語っています。 そして、創世記6章5~8節(~11章)には「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを 心に思い計っているのを御覧になって・・・」とあり、また、マルコ福音書7章20節~ではイエス様も人の心の内について「人から出てくるものこそ、人を汚す。・・・人間の心から、悪い思いが出てくるからである。・・・」と語っておられます。 さらに、パウロ自身は自らについて、ロマ書7章で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と記しています。 私たち人(ホモ・サピエンス)は一人残らず、残念ながら神様の御前に罪ある存在で死に定められた者なのです。讃美歌 511番の歌詞が語るとおりなのです。このまま私たち人(クロマニヨン人:ホモ・サピエンス)が、互いに憎みあい、争っていたら間違いなく滅びる時が来るのです。 話が少し横にそれますが、20世紀初頭から発展した自然科学の物理学の分野に量子力学という学問分野があります。その研究者の中から20世紀後半に『人間原理』という仮説を主張する方々が現れました。科学、物理学の原理としては今まで聞いたことも無い様なとても不思議な名称の原理です。その内容を簡単に申しますと、「私どもの存在しているこの宇宙は、宇宙が生まれた時から不変の物理定数に基づき変化して今日に至っているものであり、人間が今のように存在するようになることは必然であった」という理論です。その仮説はまた「宇宙には意志がある」ように見えると、さらに「宇宙は自らを理解してくれる存在を欲している」とまで言うのです。但し、ここまで表現してしまうと科学の領域を超えてしまうので、それらの物理学者は控えめに主張しているようです。何とも驚くべき物理学者の主張です。 さて聖書の示している内容に戻りますが、実に人は地球上に神の霊を宿し肉体を持つ生き物として 存在をゆるされましたが、悪魔の誘いに乗り罪ある死ぬべき存在となってしまったのです。神様は宇宙創造の始めから人の出現を予定しておられ、その結果として人は存在するようになり、しかし、神様が人に与えた自由意志により、人が罪を犯し死ぬべき存在となってしまった。その様な人を見捨てられず、救う必要から御子を受肉させられ、即ち、キリストの降誕を起こされ、人の罪を贖うために身代りとして十字架刑に処し、更に神様御自身の力によりイエス様を復活させられるという事を起こされたのです。 旧約のイザヤ書55章9節に「天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。」、新約のⅠコリントの信徒への手紙2章9節には「目がまだ見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。」という御言葉があります。実に神は自ら命の息を吹き込んで自らに似せて創造した人を救うために、人の心に思い浮かびもしなかったことを準備されたのです。ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されている通りの事が起こったのです。すなわち、神の御子の受肉(クリスマス)と十字架上での死と復活です。ロマ書5章20~21節でパウロは、自らに啓示された信仰の真理として「罪が増したところには、恵はなおいっそう満ちあふれました。・・・罪が死によって支配していたように、恵も義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」と語り、また、同じロマ書の3章後半で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。・・・イエスを信じる者を義とされるのです。」と、さらには、Ⅰテモテ2章4~5節で「神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介人も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」とも語っています。神様は悪魔のかどわかしで罪に陥って滅びる以外に無くなった人類に、福音を語る聖書と共に時至り本当に罪の贖い主として御子イエスをお与え下さったのです。誠に「天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えて」おり、人の「目がまだ見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。」のであります。 < Ⅳ > それ故に、そのような深い神様の御心について信仰の目の開かれたペテロも自らの手紙の中で「・・・主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。・・・」(Ⅱ ペトロの手紙3章8~10節)と記し、イエス様も公的生涯の最初に「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)と私たちに語られたのでした。わたしたち人(ホモ・サピエンス)が、この地上に存在できなくならないために残された唯一の道が、「だれでも水と霊とによって生まれ(なければ、神の国に入ることはできない)。・・・」(ヨハネによる福音書3章1~15節)、「神がお遣わしになった者を信じること、それが(御心にかなう)神の業である。」(ヨハネによる福音書6章28~29節)なのです。実に「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる。」(ロマ書10章10節)のです。自分たちの創造主なる真の神様の下に立ち返らせて頂き、「へりくだる霊の人、打ち砕かれた心の人」(イザヤ書57章15節)、徴税人の叫び「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい。」(ルカによる福音書18章13節)、ダビデの叫び(詩編51編)の様に「打ち砕かれた魂」とされ、神様の御前に本当に立ち返ることが大切なのです。 < Ⅴ > しかし、イエス様がさらに語られている様に「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」(マタイによる福音書7章21節)のであり、私たちは、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音書18章1~5節)とある様に、幼子の心で神の恵みとしてのイエス様の罪の贖いを信じ、聖霊の助けにより神様の御心に叶う存在へと新しくされ、「霊と真理をもって礼拝」(ヨハネによる福音書 4章21~24節)する歩みを為すことが重要なのです。さらに、神の愛を受け最も重要な掟として唯一の主である神を愛し、隣人を愛し生きること(愛によって働く真の信仰に生きること)、サマリア人(ルカによる福音書10章25節~)を手本として生きることを神様は私たちに求めておられるのです。 終わりに けれどもわたしたち人は、イエス様の十字架の贖いの死と復活から凡そ2千年の月日が過ぎようしている今日ですら、ユダヤ人を含めそのことを理解し、受け入れようとしていません。それぐらい真にわたしたち人は、高慢で頑な、愚かな罪深い存在なのです。一人ひとり胸に手を当て、「自分は正しい、自分の信仰と生き方は正しいと思い込んでいないのか、自分には真の信仰がある、自分は神の御心に従っているとかってに思い込んでいないのか ? 」と、改めて自問する必要があるのではないでしょうか。そして、同時に私たち信仰者はパウロが語るごとく、天上の悪の霊と戦い続けなければなりません(エフェソの信徒への手紙6章10~20節)。どうか皆さん共に神様の義と愛に満ちる永遠の命の世界、神の国へ招き入れて頂けるよう、信仰と希望を失わず、真の礼拝の日々の内に人生を全う致しましょう。 最後に重ねて申し上げたいのは、私たち人類が滅亡から救われるために、神様の備えたもうた唯一の道であるイエス・キリストの十字架の罪の贖いと復活の福音を、マルコによる福音書13章9節後半~でも記されているごとく、一人でも多くの人々に残された人生の時を生かして宣べ伝え続けようではありませんか。無教会主義精神の大切な一面に「平信徒伝道」があります。私が以前家族を伴い滞在を許されました北欧ノルウェーにも、素晴らしい信徒伝道の歴史がございます。神様が18世紀から19世紀に掛けて興された農民平信徒伝道者ハンス・ニールセン・ハウゲの関わった素晴らしい歴史でございます。以降北欧ノルウェーでは、平信徒伝道の拠点として、全国各地に「祈りの家:ノルウェー語でベーデ・フースと言われる」が興され、正統派福音信仰が宣べ伝えられ続けているのです。 極東アジアの日本において神様が19世紀から20世紀に掛け興された内村鑑三から始まった無教会主義の歩は、形式によらず、制度によらず、平信徒による生きた福音伝道の歩であります。現在、それらの平信徒伝道者が関わり、基督教独立学園、韓国プルム農業高等技術学校、愛農学園農業高等学校、そして、キリスト教愛真高等学校において、真に尊い伝道と教育事業が展開されています。北欧ではハウゲ以降、平信徒を中心とし若者への伝道と教育が今日まで受け継がれ、豊かな実を結んでおります。小国でありながら神の御心に叶う世界的に素晴らしい働きが為されています。以上を持ちまして講話とさせて頂きます。 |